どこまで、自分の意識を遡っていけるのか?
もし、どこまででも遡れるなら、「無」的なものに行き着く。
自分がなくなる。
今回のボロブドゥール寺院ツアーのテーマは「無を知る」でした。
「無を知る」ための方法論は、自分の意識に懐疑的に
「どうしてこうなのだろう」という形式で、どこまでも遡っていくこと。
そのとき動く感情の機微にも留意しながら。
仏教でいう「身心脱落」は、そのような形でしか行き着けないのではないか。
「身心脱落」で「無」に到達しようと思っても、そうそう、出来るものではない。
あるイメージのもと「何かになろう」という、ある方向性を持った動きは、その方向性自体から自由になることは出来ない。
言葉が提示するイメージに行き着くだけだ。
では、なぜ自分の意識を懐疑的に遡っていくことでは、それが出来るのか。
なぜならば、「自分」というものは、「無限性」から成り立っているから。
その無限性は、「無」と限りなく近いものだから。
「身心脱落」とはブラックホールがあらゆる光を吸収するように、全方向性を失っていくこと。
それは無限への出入り口とも言える。
「無を知る」とは、自分の無限性への旅。
ボロブドゥール寺院の最上段のストゥーパも、通常の仏教遺跡とは異なり「仏舎利」がない。
「無」を象徴している。
無限の象徴。
私たちは、有限の物質界にて「無限を知る」旅を続けている。
この旅は、いつも未知に向かって開かれている。
しかし、時に、自らの持つブロックが、この旅を邪魔する。
このとき、「勇気」が必要となる。
おそらく当人にとっては、途方もないほどの「勇気」が必要となる。
なぜなら、そのブロックは自分自身であるから。
つまりは自分自身を壊し乗り越えていくことを必要とする。
誰にとっても自分を壊し、そして乗り越えていくことほど「勇気」を必要とすることはない。
ここボロブドゥール寺院では、その「勇気」を与えてくれる。
なぜなら、ボロブドゥール寺院では、自分を見る複数の視点を持つことが
可能なために、自らの旅の全体像が見えるから。
進化とは何か。
愛とは何か。
がここでは体感できるから。
Art Swing MAMI さんの描くボロブドゥール寺院 『Big Love』
海から眺める
日の出の光。
魔法に満ちた
人生の始まりです。
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