欲 = 「(ありのままの)自分自身からの逃避」欲
と言えます。
普段、人は自分自身をどのように観ているのか。
多くの人は次のように観ています。
1)私は「無価値」である。「ダメ」である。
2)私は能力に欠けている。
3)私の人生は辛く苦しいものである。
4)私は罰せられるかもしれない。
現在、多くの人は、幼少時から個別に分離された存在として「比較マインド」「競争マインド」のなかで育つシステムとなっているため、自分より何らかの面で優れた人と接すると、「私はダメだ」と思い、そのダメだという気持ちを頑張りに変えて、自らを成長させようとする教育・指導が、はびこっています。
たとえ自身が何らかの能力に秀でていて「優れている」という感覚を持っている人であっても、その考え方のベースに「比較マインド」があるために、おそかれ早かれ何らかの「能力に欠けている」という感覚を持つようになります。
また完璧主義者の場合は、この「比較マインド」を、自身の「より良い理想」との対比で行うために、永久に満足すること出来なくなってしまいます。
その結果、いつしか内面に「私はダメだ」という「自責の念」を持って生きるようになります。
内面で、「私はこのままではダメだ」と頻繁に自分自身を裁くようになるため、外部である他者から何かの理由で罰せられることがあると、そのことを非常に苦痛に感じるようになります。
なぜなら、自身の内側でひとり芝居していた「ダメな自分」が、「証明」されることになるからです。
上記の1)が2)を呼び、そのため、自分自身のより良い評価を外部に求めるようになり、いろいろなことを我慢し頑張りつづけ、それでもそれが叶わぬばかりか、他者からも罰せられることが続くと、人は3)に至ります。
こうした自身についての「無価値感」が講じていき、このままでは私は、天からあるいは世間から、4)「罰せられるかもしれない」と思うようになります。
「ありのままの自分」があまりにつらいので、そこからの逃避をしたくなります。
そして逃避するために好都合な「欲」が出てきます。
何らかについての「欲」、例えば
「食欲」
「成功欲」
「出世欲」
「金銭欲」
「快楽への欲」
「目的達成欲」
「権威欲」
などをが自分のなかにあると感じるときには、
「その欲が充たされることで、私の内面は何を得るのだろう? 内面のやっかいな気持ちの何が消えるのだろう?」
と考えてみて下さい。
たとえ、一時、欲が充たされたとしても、その内面のやっかいな気持ちが残っている限りは、あなたは次なる欲を求めてしまいます。
そして、それが延々と続き、いつの間にかあなたは、非常に「欲深い」「執着の強い」人となってしまいます。
加えて、現在の経済システムが人々の「欲」の達成を大きな原動力、駆動力としているため、あなたは普通に生活をしているだけなのに、常に外部から「欲」を強く刺激され続けます。
企業広告はこの素敵な商品がどれだけあなたを輝かせるか!といったたぐいのアピールを四六時中行い、一方であなたは自分が無価値でダメで能力なしと思っているとしたら、それは企業にとっての格好のカモとなってしまいます。
また、欲が充たされることによって、4)のように私は罰せられているのではなくて、むしろ天や世間から「祝福」されているのだ、と自己暗示に掛けることにも成功出来ます。
欲が充たされることで世間から受け容れられ、かつ自分(の目標)からも受け容れられ、ようやく、「私は生きてても大丈夫なのだ」と思えるようになります。
こうしたわけで、人は、「欲」に突き動かされ続けています。
不自然なまでに「欲」深い自分を自覚していくと、その部分に意識の光が当たるようになります。
加えて、ありのままの自分の認識は、自身の持つ「不自然さ」の解放につながっていくからです。
無理に「欲」深い自分を許したり愛したりする必要はありません。
ただ認識し自覚します。
ダメだなぁとどうしても思ってしまうでしょうが、それでも、出来るだけ価値判断は脇に置いて、「強い刺激によっていろいろと忘れたいことがあるんだなぁ」とありのままに思います。
そして、内面にある「やっかいな気持ち」を知り尽くそうとしていきます。
ときには、「やっかいな気持ち」と完全にひとつになるくらいに、感じ尽くします。
そうしたことによって、「やっかいな気持ち」は徐々にやわらぎ、「欲」も静まってきます。
最後にお願いがあります。
もしあなたが、自分自身の「欲」に気づいたり、自分自身を「私はダメだ」と裁いていることに気づいたならば、次のような問いを自分自身にしてみて欲しいのです。
「このままの私で、完全にすべてが許され祝福され光輝いているのだとしても、私はいまその「欲」や「裁き」を必要とするだろうか?」
Art Swing MAMIさんの絵
『 久しぶり♪』
キラキラ好きのイルカが
星々を伴い、
希望に胸をふくらませて、
やってきました。