自分の身体に問いかけよう。
たとえば、何かを食べる前に。
本当に身体は欲しがっているのかを問いかける。
でも、実はそれをあなたの身体は欲しがっていなかったとしよう。
それでもその食べ物を食べたいのなら、
そのときは、あなたが、身体に納得させよう。
それだけで、ずいぶん違う。
身体にかかる負荷が違う。
感情のニーズだけからモノを食していたとしよう。
それを身体が欲していなかった場合は、
身体は感情から命令を受けていたことと同じ状態になる。
これが続けばどうなるか。
身体は悲鳴をあげる。
肉体は寂しくもなろう。
気を配ってくれる存在がないのだから。
いつしか感情はそのはけ口として、肉体を利用することを覚える。
それは食事ばかりではなく、いろいろな形ではけ口として利用されていく。
身体ばかりに負荷がかかってしまう。
いつか肉体の反抗期がくる。
そのとき、感情は、そのはけ口を失い、結果、
あなた自身全体がおおいに混乱する。
たとえ回復したとしても、ますます自らの肉体をやっかいなもの、
道具的なものと見なし続けるかもしれない。
身体と感情との調整役をあなた自身がとろう。
ちなみに、このときのあなたとは、知性体としてのあなた。
あなたは肉体を粗末に、あるいは感情の犠牲者にしてはいませんか?
久しぶりに川遊びをしました。
たった一人で1時間ほど遊び、その後、皆と合流しました。
一人での川遊びは生まれて始めてだったかもしれません。
充溢した自然や動物たちとの接触でした。
みんなは日本から持ってきたクリスタルを
川のせせらぎで、愛情を込めて洗い清めていました。
私は身体を洗っていました。。。嘘ですよ